「暴力からの奪還」と「協調の育成」
エルサルバドルの規律と日本の校則の決定的な違い

Overseas Education News #08 Order vs. Freedom: The Salvadoran Experiment

エルサルバドルで始まった、教育相による迷彩服での視察や、挨拶・身なりの厳格な義務化。これらは一見すると日本的な厳しい指導に見えるかもしれませんが、その「目的」には大きな開きがあります。

規律の目的

エルサルバドルと日本では「挨拶」「制服の着用」を大切にしていますが、そこにある願いは少し異なります。

エルサルバドルでの規律は、ギャングの支配下にあった学校を「奪還」し、国家の秩序を再建するための「生存と防衛」が目的です。規律は、暴力を寄せ付けないための「国家の防壁」として機能しています。

一方、日本の学校での指導は、社会の一員として他者と円滑に関わるための「マナー」や「協調性」を養うという「社会化(共生)」が目的です。

日本にとっての規律は、和を乱さず心地よい環境を作るためのツールですが、エルサルバドルにとってのそれは、社会を立て直すためのアプローチなのです。

教育のトップのあり方

新教育相が迷彩服を纏って学校を視察する姿は、世界中に驚きを与えました。教育のトップが軍服を模した装いをするのは、学校が今も「最前線(かつての暴力との戦い)」であることを示しています。

日本の教育長や文部科学省のトップが、特定の「強い象徴」を纏うことはまずありません。日本の教育者は「市民に仕える者」であり、権威を誇示するのではなく、中立的な存在であることが求められます。この「教育のトップのあり方」の違いは、両国における教育の重要度の置き方の違いとも言えるでしょう。

プレッシャーの出所の違い

日本の教員も「校則の見直し」や「指導のあり方」で日々悩んでいますが、それは「管理の厳しさ」というよりは、「時代に合わせた柔軟なルールとは何か?」という視点での悩みが多いはずです。どちらの国も「現場の負担」は大きいはずですが、そのプレッシャーの出所が「治安維持」か「時代の変化」か、という点が対照的です。

エルサルバドルの事例は、秩序と自由のバランスをどう取るかという、極めて困難な問いを私たちに突きつけています。暴力の影を払拭するために、外見から変えていくという「劇薬」。それを教育の手段として選ばざるを得ない国の事情と、平和だからこそ、あえて「校則」のあり方を柔軟に問い直せる日本の余裕があります。

私たちは「自律」を育てるために規律を学んでいるのか、それとも「管理」されるために学んでいるのか。エルサルバドルのニュースは、日本が当たり前のように享受している「校則」や「規律」の意味を、もう一度私たちの手元で考え直すきっかけになるかもしれません。

このニュースをきっかけに、家庭での「デジタルとの付き合い方」を改めて話し合ってみるのも、良い機会となるでしょう。