※小学生Aさんへのインタビューをもとにスタッフが記事として更新しています※

今日は、家康を語るうえで欠かせない徳川家臣団についてお話をします。徳川家臣団の中でも4人の武将は「徳川四天王」と呼ばれています。その徳川四天王の中で最も年上だった酒井忠次(さかいただつぐ)を紹介します。

酒井忠次は、家康のお父さんの徳川広忠(とくがわひろただ)と年齢が近く、家康のおじいさんの徳川清康(とくがわきよやす)の代から徳川家に仕えていました。

「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川軍と武田信玄率いる武田軍の戦いで、武田軍が勝利を収めました。この戦いに敗れた家康は、本拠地である浜松城に逃げ込むことになります。逃げ込む家康に迫る武田軍から家康を救ったのは酒井忠次でした。

酒井忠次は「空城の計(くうじょうのけい)」と呼ばれる作戦を実行しました。それは、わざと城の門を開けておくというものでした。さらに、城の中で酒井忠次は太鼓をたたいたのです。武田軍は「わざわざ門を開けて、中から太鼓の音がするというのは徳川軍の罠に違いない」と考え、浜松城を攻め入ることを止めたのです。こうして、家康は酒井忠次の「空城の計」によって命を救われました。

因みに、酒井忠次が叩いた太鼓は「酒井の太鼓」と呼ばれています。

酒井忠次のすごさを物語るもうひとつは「長篠の戦い」でのことです。「長篠の戦い」は、徳川家康と織田信長率いる連合軍と武田勝頼率いる武田軍の戦いです。当時の武田軍は、最強の騎馬隊と恐れられていました。

この戦では、織田・徳川連合軍が3,000丁ともいわれる、当時ではとんでもない数の鉄砲を持っていました。しかし、その鉄砲は敵武田軍が遠くにいては玉が届きません。武田軍を織田・徳川連合軍の鉄砲隊がいる近くまでおびき寄せる必要がありました。そこで酒井忠次は、織田信長に「鳶ノ巣山砦(とびのすやまとりで)を攻めれば、武田軍は鉄砲隊の近くまでおびき寄せることができる」と話しました。この酒井忠次の策は的中して、織田・徳川連合軍は武田軍に勝ったのです。

この戦での功績から、織田信長に「徳川家の家老、酒井忠次は後ろに目がある」と言われるほどでした。それほど優れた武将だったのです。

徳川家臣団の中でも大黒柱だった酒井忠次は、年長者であったこともあり、四天王の中で最も早く亡くなりました。以後、長く続く徳川家にとっての功労者であり、忠実な家臣でした。

徳川四天王

徳川家臣団の大黒柱であった忠臣、酒井忠次

信頼が厚かった猛将、本多忠勝

真面目な性格だった智将、榊原康政

「井伊の赤鬼」と恐れられた忠義の将、井伊直政

この記事を書いたのは…

竹千代

小学6年生。小学校低学年のときに歴史漫画「徳川家光」読み、特に戦国時代に関心を持つようになる。
魅力的な戦国武将がたくさんいる中で、最初に読んだ徳川家光の祖父、徳川家康が自分に何かが合っていると直感で感じた。