※小学生Aさんへのインタビューをもとにスタッフが記事として更新しています※

本日は、「徳川四天王」の一人である榊原 康政(さかきばら やすまさ)を紹介します。榊原康政は、本多忠勝と同じ年齢で、智略に優れた武将でした。榊原康政の「康」は、ぼくの憧れの徳川家康の「康」から名付けられたと言われています。

豊臣秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い(1584年)」は、徳川軍に軍配が上がりました。榊原康政はこの戦で全国の大名に檄文(げきぶん:自分の主義や行動が正しいと人々に主張し、同意を求める文書)を送りました。「豊臣秀吉は、主君の織田信長の恩を忘れ、織田家をないがしろにしている」という内容です。それを見た秀吉は「康政の首をとった者に10万石のほうびを出す!」と激怒しました。

この檄文は、榊原康政の智略があってこそだったと、ぼくは思います。秀吉を冷静にさせなかったからです。

豊臣秀吉が亡くなった後の「関ケ原の戦い(1600年)」は、徳川家康と石田三成らによる戦いでした。ここで徳川軍は、江戸幕府の二代目将軍となる徳川秀忠が率いる大軍が、決戦の場に遅参するという事態が起きました。徳川家康は息子である秀忠に激怒し、3日間面会をしませんでした。

そこで榊原康政は家康に「息子を待たずに戦を始めて、遅れてきたことを後から責めるのですか!」と激しく注意しました。普通であれば主君に注意をするのは遠慮すると思うのですが、榊原康政は主君に注意できるほど真面目な一面を持っていたのです。

前回紹介した本多忠勝と、今回紹介した榊原康政は同じ年齢でした。2人を一文字で表すと本多忠勝は「武」榊原康政は「智」だと思います。榊原康政は智略に優れ、とても真面目な忠臣でした。

さて、次回は徳川四天王のあと一人、井伊直政を紹介したいと思います。どうぞお楽しみに。

徳川四天王

徳川家臣団の大黒柱であった忠臣、酒井忠次

信頼が厚かった猛将、本多忠勝

真面目な性格だった智将、榊原康政

「井伊の赤鬼」と恐れられた忠義の将、井伊直政

この記事を書いたのは…

竹千代

小学6年生。小学校低学年のときに歴史漫画「徳川家光」読み、特に戦国時代に関心を持つようになる。
魅力的な戦国武将がたくさんいる中で、最初に読んだ徳川家光の祖父、徳川家康が自分に何かが合っていると直感で感じた。