【第13話】豊臣秀吉と徳川家康

※今回も小学生Aさんが自分で記事を書きました

本能寺の変で織田信長が亡くなり、さらに長男の織田信忠も亡くなると、織田家では後継者を決めるため清洲城(愛知県清洲市)で会議をしました(1582年)。

ここで対立したのが羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田家の筆頭家老であった柴田勝家です。
羽柴秀吉は織田信忠の息子の三法師(3歳)を推していて、柴田勝家は織田信長の三男の織田信孝を推していました。

この会議では、羽柴秀吉が明智光秀を倒したこともあり、後継者は羽柴秀吉が推していた三法師に決まりました。それに怒ったのが柴田勝家です。
やがて二人は賤ケ岳(しずがたけ、滋賀県長浜市)の戦いで激突し、敗北した柴田勝家は北ノ庄城(福井県福井市)で自害しました。

こうして羽柴秀吉は織田家の主導権をにぎったのです。

勢いにのった羽柴秀吉に抵抗するため、徳川家康は織田信長の次男の織田信雄と手を結びました。そして「織田家を守る」という大義名分をかかげて羽柴秀吉に戦いをしかけたのです。

両者は尾張の小牧山でにらみ合いましたが、簡単には動きませんでした。先にしびれを切らしたのは羽柴秀吉です。羽柴秀吉は、徳川家康の本拠地であり手薄だった三河国に別動隊を送りました。

しかし、その動きに気付いた徳川家康はその別動隊をはさみうちにして撃破、多くの兵を倒しました。

羽柴秀吉

羽柴秀吉は、徳川家康に負けたことで、いったん全軍をひきあげました。しかし、その後は織田信雄だけをピンポイントで攻め、和睦にもちこみました。

それを聞いて驚いたのは徳川家康です。なぜなら、「織田家を守る(織田信雄を助ける)」という大義名分があったからこそ戦えていたので、織田信雄が相手と和睦してしまっては戦えないからです。

こうして小牧・長久手の戦いは終わりました。

羽柴秀吉は、小牧・長久手の戦いの翌年、関白に任命されました。関白とは、天皇の次に身分が高いとされている役職です。

その羽柴秀吉は、徳川家康を服従させるため、自身の妹の朝日姫を徳川家康にとつがせました。これは敵に人質を送ったようなものです。

それでも徳川家康が動かないとみると、今度は自身の母の大政所を送りつけました。さすがの徳川家康もこれには驚き、ついに大坂城で臣従しんじゅう(臣下として従うこと)しました。

この記事を書いたのは…

竹千代

小学6年生。小学校低学年のときに歴史漫画「徳川家光」を読み、特に戦国時代に関心を持つようになる。
魅力的な戦国武将がたくさんいる中で、最初に読んだ徳川家光の祖父、徳川家康が自分に何かが合っていると直感で感じた。