【第14話】豊臣秀吉の死

※今回も小学生Aさんが自分で記事を書きました

徳川家康を従えた豊臣秀吉の残る敵は関東の名門・北条氏と東北の大名たちだけになりました。

北条氏は、100年余り、5代にわたって関東を治めてきた大大名で、4代目氏政と5代目氏直が治めていました。豊臣秀吉は、その北条氏の城を次々と落とし、本拠地の小田原城にせまりました。そして豊臣秀吉が率いる20万の大軍で小田原城を取り囲み、降伏させたのです。

この戦いには徳川家康も加わっていて、そのほうびとして旧北条領を与えられました。しかし、三河や遠江など以前の徳川の領地は没収されることになりました。

徳川家康は、以前より領地は広くなりましたが、生まれ育った場所を離れることになったのです。この転封てんぽう(江戸時代の幕府の命令により大名の領地を他に移すこと)には、豊臣秀吉のある意図がありました。
豊臣秀吉の本拠地の大坂から少しでも徳川家康を遠ざけようとしたのです。

竹千代

僕は、この転封の話から、豊臣秀吉ほどの大物も恐れさせ、遠ざけられるほど徳川家康はすごい大名だったのかな、と思いました。

豊臣秀吉の残る敵は東北の大名たちだけになりました。

独眼竜と言われ恐れられた伊達政宗は小田原攻めの途中に臣従していたので、豊臣秀吉はその他の東北の大名を従えました。

そして、東北での反乱を鎮圧させ、天下統一を完了しました。1590年のことでした。

文禄の役『釜山鎮殉節図』

天下統一を達成した豊臣秀吉でしたが、弟の秀長や息子の鶴松が相次いで亡くなり、次第に暴走するようになりました。

鶴松亡き後、後継者は甥の秀次と決めましたが、後に淀殿との間に秀頼が生まれたため、秀次に謀反の疑いをかけ切腹させたほどでした。

また、明(いまの中国)を征服するため、朝鮮に2度にわたって攻め込みました。最初は有利でしたが、次第に苦戦が続くようになりました。

そんな中、豊臣秀吉が病に倒れ、死去しました。それにより、日本軍は撤退したのです。

豊臣秀吉は、亡くなる前にまだ幼い息子、秀頼を支えるためのシステムをつくっていました。

それが五大老五奉行制です。五大老は、有力大名5人で構成され、五奉行は豊臣秀吉の優秀な重臣5人で構成されています。

五大老…徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元

五奉行…石田三成、浅野長政、前田玄以、長束正家、増田長盛

豊臣秀吉は、この五大老と五奉行に後を託して亡くなったのです。

この記事を書いたのは…

竹千代

小学6年生。小学校低学年のときに歴史漫画「徳川家光」を読み、特に戦国時代に関心を持つようになる。
魅力的な戦国武将がたくさんいる中で、最初に読んだ徳川家光の祖父、徳川家康が自分に何かが合っていると直感で感じた。