【第16話】天下分け目の戦い

豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康は勢力を拡大しようと動き出しました。

徳川家康は、自分の子を他の大名の子と結婚させたりしましたが、これは豊臣秀吉が定めたルール「御掟おんおきて」にそむくことでした。

そのことに怒った五奉行の石田三成は、徳川家康と対立します。しかし、その対立をおさえていたのが、徳川家康と同じく五大老の前田利家でした。

前田利家は、豊臣秀吉と親しく、「加賀百万石の祖」といわれるほどの大大名です。しかし、その唯一家康に対抗する力を持っていた前田利家が亡くなると、徳川家康と石田三成との対立はどんどん激しくなっていきました。

前田利家

そんな中、徳川家康のもとに1つの知らせがきました。
上杉景勝(五大老で東北の大名)が、道や橋をつくったり、武器を集めたりするなど怪しい動きをしているというのです。

こうして謀反の疑いをかけた徳川家康のもとに今度は長い書状が届きました。この書状「直江状なおえじょう」は、上杉景勝の家臣、直江兼続が徳川家康を挑発するために書いたものです。

徳川家康はこの「直江状」を見て激怒します。上杉氏を滅ぼすために出兵しました。

ところが、徳川家康たちが討伐に向かっているすきに、石田三成を中心とする反家康派の人たちが挙兵しました。これで徳川家康は大ピンチにおちいったのです。

石田三成が挙兵したことを知った徳川家康は、小山(栃木県小山市)で会議を開き(小山評定)、徳川軍としての結束を固め、一旦江戸にもどりました。

そこで全国の大名たちに手紙を書いて味方を増やしたり、石田三成を裏切るよう、うながしたりしました。そして、江戸から出発した徳川家康は、関ケ原で石田三成と戦いました。

結果は、徳川家康率いる東軍の勝ちでした。たった6時間で決着がついたといいます。この戦いでの勝利により、徳川家康は、政権をにぎったのです。

関ケ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、西軍についた大名を処罰し、東軍についた大名の領地を増やすことで、すべての大名を支配下に置きました。
また、全国の大名を親藩・譜代・外様に分け、幕藩体制を整えました。

1600年の関ケ原の戦いから3年後の1603年に徳川家康は、征夷大将軍に任命されました。
そして江戸幕府を開き、正式に政権をにぎることになったのです。

この記事を書いたのは…

竹千代

4月から中学1年生。小学校低学年のときに歴史漫画「徳川家光」を読み、特に戦国時代に関心を持つようになる。
魅力的な戦国武将がたくさんいる中で、最初に読んだ徳川家光の祖父、徳川家康が自分に何かが合っていると直感で感じた。