【第17話】泰平の世を築く

征夷大将軍になり、江戸幕府を開いた徳川家康でしたが、わずか2年で将軍職を息子の秀忠にゆずります。徳川家が代々将軍を継ぐことをアピールしたのです。
将軍職をゆずった徳川家康は隠居し、大御所として政治を行いました。

そんな中、徳川家康と豊臣秀頼(秀吉の息子)との間で、ある事件が起こります。

豊臣秀頼が方広寺を再建するためにつくった鐘の中に「国家安康 君臣豊楽」という銘文がありました。

徳川家康はその銘文を見て、「『国家安康』で家康の字を分断して呪い『君臣豊楽』は豊臣が君主として楽しむ」として激怒し、豊臣家を滅ぼすため20万もの大軍で出兵しました。

徳川家康の出兵を知った豊臣秀頼は、全国から10万人の浪人を集めて大坂城に籠城しました。
浪人の中には「日本一の兵」と恐れられている真田幸村もいて、真田幸村がつくった出城「真田丸」はとても有名です。

徳川軍は大坂城を包囲しましたが、この真田丸に苦戦してしまいます。

そこで徳川家康は大坂城に連日大砲をうちこみました。その大砲がたまたま天守に当たると豊臣軍は和議を申し込みましたが、徳川軍から和議の条件として、大坂城の堀(真田丸を含めて)を埋めることになりました。

ですが、大坂冬の陣から約半年後、再び徳川家康と豊臣秀頼との間で戦いが起こります。
これが徳川家康の人生最後の戦いとなる、大坂夏の陣です。

大坂冬の陣の和議の条件として、大坂城の堀を埋めてしまったので、今度の豊臣軍は籠城せずに城の外に出て戦いました。しかし、徳川軍の圧倒的な軍勢の前に次々と浪人たちが倒れていきます。
真田幸村は、徳川家康の本陣に3度決死の突撃をし、徳川家康も切腹を覚悟するほど追い込まれましたが、結局真田幸村が討たれ、豊臣軍は大坂城へ撤退しました。

その後、大坂城が炎上し、豊臣秀頼が自害します。こうして豊臣秀吉が築き上げた大坂城は焼け落ち豊臣家は滅んだのでした。

1615年の大坂夏の陣から1年後の1616年、徳川家康は75歳の生涯を閉じます。
徳川家康は、死後、天皇から「東照大権現とうしょうだいごんげん」の神号を与えられ、今も東照宮にまつられています。(東照宮は日光東照宮、久能山東照宮等とも呼ばれています)

徳川家康がつくり上げた江戸幕府は、1867年に15代将軍、徳川慶喜が大政奉還するまでおよそ260年も続きました。

竹千代


江戸時代には
「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川
(織田信長が始めた天下統一を豊臣秀吉が完成させたが、最終的には何もしていない徳川家康が天下を横取りした)
という風刺の歌がつくられました。しかし、徳川家康は何もしていないのではなく、むしろ苦労の連続だったことから、この様子を絵に書いた人は厳しい刑を受けることになりました。

道外武者御代の若餅(歌川芳虎)

この記事を書いたのは…

竹千代

4月から中学1年生。小学校低学年のときに歴史漫画「徳川家光」を読み、特に戦国時代に関心を持つようになる。
魅力的な戦国武将がたくさんいる中で、最初に読んだ徳川家光の祖父、徳川家康が自分に何かが合っていると直感で感じた。